NANAのネックレス

人生がしんどくなると温泉に行く。


大きい風呂は良い。自分のからだをじっと観察する余裕が生まれる。ふだん自分の身を包んでいる「社会性」みたいなものはお湯の中でほどけていき、純粋に動物的な「ヒト」としての自分の身体を眺められるように感じる。


先日も先日とて人生がつらいので一旦ほどけてしまおうと思い、近所の某温泉へ浸かりにいった。


地元の人が主に通うような小さな温泉だし、そもそも昼間だったしで、おばちゃんやおばあちゃんと呼ばれる世代のひとがお客の8割を占めている。


そんなおばちゃんやおばあちゃんのからだをつい盗み見てしまう。


老体というのはとても興味をひかれる。

服を脱いだ彼女たちの身体は私のからだとはまったく別の種類のもののように思える。

例えば切り立った崖から削り取った荒い岩石のかたまりのような。

あるいはどろっとした水飴を上から垂らしたときに地面に溜まるひだひだを、ゼリー状に固めたみたいな。


妙な想像を働かせる罪悪感もありつつ、どうにも目がいってしまう。


その日はしばらく浸かった後、涼みたいと思っていつものように露天のある外へ出た。露天風呂には先客がいた。70代後半と思しき女性がお湯に浸かっている。


その女性は首に金のネックレスをつけていた。


矢沢あいの『NANA』の主人公でブラストのボーカルやってる方のナナが、年をとったらこういう類のアクセサリーをつけるかもしれない。

なのでこのネックレスを「NANAのネックレス」と呼ぶことにした。


NANAのネックレスを見て、この場所、私にとっては「社会性の脱衣される場所」たる温泉という場所において、その女性の「社会的な自己肯定」といったようなものを強く感じたのだった。


うまくやれるか分からないけど、分からないなりに言葉にしてみようと思う。


その女性の身体には少なからず老いが爪痕を残していた。老いは彼女の顔にさざ波のような皺を彫り、剥き出しの鎖骨を過度に強調させ、かつてはふっくらしていたであろう二の腕をしぼませ、残った皮ばかりが腕からぶら下がっている。動物的な身体としては女性は確実に衰退していっていた。


けれどもNANAのネックレスである。ぴかぴかした少し太めの鎖をつないだネックレスは決して高価なものではなかったはずだけども、そのネックレスをつけた彼女のからだを私はきれいだと思った。


それというのはたぶん、NANAのネックレスが、彼女自身が自分のからだを彼女の生き様の表れとして「肯定」していることの印のように思えたからではないだろうか。


この女性は人生の中でたくさんの経験をしてきたはずだ。過去にたくさんの「物語」を紡いできたことだろう。


NANAのネックレスは、裸の彼女の動物的な「老い」を、彼女の生き様(あるいは社会性)へと橋渡しするよすがとなり、私に彼女の老いの「物語」へと目を向けさせ、そのぴかぴかした輝きで老いを讃えていた。


彼女が「肯定的に生きてきた」のか「最終的に生きてきたことを肯定するに至った」のかは、どちらとも言えないけども、どちらも本当にカッコイイことだと思う。強いことだと思う。


私のような人間にもいつか、NANAのネックレス的な人生を肯定する証的な何かしらのモノを持てる日が来るものかしら。

モノがあるというのはとても心強いことだ。

モノは手で触れるので。


そういえば、ここまで書いてきておいてあれだが、私は『NANA』を途中までしか読んでない。


ブラストのボーカルの方のナナは、レンとどうなったのだろう?


例によって、色々と物思いをする風呂だった。

また近々行こうと思う。