全人類よりご挨拶

「作品と作者は切り離して考えろ」という文言があるように、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」のほうが重要な意味を持つ場面は多い。

しかし残念なことに、人間は「誰が言ったか」を重視しがちだ。もちろんそれでも構わないときもあるかもしれないが、発言を「誰が言ったか」で判断すべきでない場合も多々ある。

たとえば、あなたが何かを主張したときに、その主張をあなたの属性と関連させる形で批判されたらどうだろうか。「男/女だからそういう主張になるんだろ」「どうせ学生の言ってることなんて大したことない」など。「そういう話じゃないだろう」と言いたくなるのではないか。

発言者の属性と発言内容のあいだに本来は何の関係もない場合でも、発言内容を発言者の属性に引きつけて考えてしまうのは、良いことだとは思えない。


 

どうすれば「誰が」重視の風潮を避けられるだろうか。そのひとつの方法が匿名化だ。インターネットの海で、仮面を被って振る舞うこと。これで「誰が」発信しているかは見えづらくなる。

 

けれど、同じ場で発信をつづけていると、過去の発言から「誰が」が浮かび上がってくる。Twitterのプロフィールに何も書いていなくても、そのアカウントの発言を遡ると、なんとなく発信者の輪郭が見えてくることがあるだろう。過去の発言のなかに散りばめられた断片的情報が繋がれることで、空に浮かぶ星座のように、発信者の姿が立ち現れるのだ。どのような人物が発言しているのかを受け手に想起させてしまえば、やはり「誰が」重視の風潮に呑まれることになる。

 

それなら、一回限りの発言を繰り返していけばいいのだ、と言われるかもしれない。ツイートするたびにアカウントを変えればいいよ、記事をひとつ書くごとにブログを新しく作ればいいのだよ、と。しかし、聴講者が全くいないところで行われる講演にどのような意義があろうか。たしかに、受け手がいなくても完結する行為もあるが、社会との関係性の中に存在して初めて意味を持つ行為もある。

インターネットの海に微小な砂つぶを投げたとして、はたして誰が見つけてくれるだろうか。ひとつの場で複数回の発信をすることは、受信者に見つけてもらうために有意義なのだ。

 

では、「誰が」をあやふやにするために必要なのは何だろうか。それは、ひとつの仮面を複数の人間で被ることだと考えられる。

AさんとBさんとCさんの人格を統合するのだ。ひとつのアカウントを複数人で共有し、仮面の裏に誰が潜んでいるのか、何人潜んでいるのかさえも分からない状況を作り出すのだ。これで、発信の場を変えることなく、発信者の姿をくらませることが可能となるのではないか。

 

そういうわけでこのサイトは複数人で運営していく。我々のユニット名は”全人類”だ。「誰が」を重視するこの社会の価値観を転覆させようと目論見ながら、積極的に社会と関わっていこうと考えている。当然ながら発信内容は多岐に渡る予定だが、この試みにお付き合いいただけるなら嬉しい限りだ。