あいちトリエンナーレはモニカ・メイヤー

いろいろと話題ですね、あいちトリエンナーレ

本題のモニカ・メイヤーについて語る前に、長い前置きをさせてください。

 

 

ヘイトスピーチ(あるいは他者の権利を侵害する表現)と表現の自由の葛藤については、ずっと議論されてきましたし、簡単に線引きができるものでもないので、これからも議論されるべきだと考えています。

ただ今回の件については、インターネット上の情報に反応して批判している人々の大部分は、実際にあいちトリエンナーレに足を運んでいないのではないか、と個人的には思います。

企画意図を理解せず、展示の全貌もわからないまま(そして、もう全貌が明らかになることはないでしょう)、切り取られた情報をすべてだと思いこんで意見を固めていくことの恐さを感じました。

情報過多の時代ですから、すべての情報の一次ソースにあたることは難しい。

けれど、自分が触れている情報が一次ソースでない場合、それが正しい情報かどうかを常に疑う姿勢をとる必要がある。

それがこの時代の情報リテラシーだと考えます。

 

 

そして、なにかと論争になりがちな歴史の話題についても少しだけ触れます。

戦争、特に第二次世界大戦と聞いて、多くの日本人が思い浮かべるのは、広島や長崎の原爆、あるいは空襲などではないでしょうか。「火垂るの墓」や、最近では「この世界の片隅に」も戦争を描いた作品として有名になりました。

これらを鑑賞して戦争の悲惨さを追体験し、戦争は良くないと実感することは、意義のあることだと思います。

けれど、これらの作品ではどうしてもこぼれおちてしまうものがあります。それは、戦争は殺し合いだということ。

加害者がいて被害者がいる、という単純な構図ではなく、互いにある面では被害者であり、別の面から見れば加害者でもあるということです。

 

原爆を落とされた。空襲があった。そういった記憶からは、被害の歴史ばかりが強調されていきます。

では、日本軍が戦地でどのような加害を行ったかについて、果たしてどれくらいの日本人が知っているでしょう。

 

もちろん、戦時中に何が起こり、何が起こらなかったかを、現代に生きる我々が完全に知ることはできません。

けれど、誰ひとりとして殺さず、傷つけずに、ただ一方的に原爆を落とされて戦争が終わったわけではないことくらいは、理解しておくべきだと思います。

 

戦時中の加害は、現代の日本を生きる私たちの責任ではないかもしれません。しかし「戦争がひとたび起これば、当然、誰しもが加害者にもなる」という事実から目を背けることは、あってはならない行為です。

それは、日本人としてどうこう、という話ではなく、全人類が理解しておかねばならないことだと考えています。

 

 

 

 

 

前置きが長くなりましたが、本題のモニカ・メイヤーの話をします。

 

あいちトリエンナーレの「表現の不自由展・その後」が展示中止になったことを受け、トリエンナーレに出展していた他の多くのアーティストが、連帯して自ら展示を取り止める事態が起こっています。

これは、検閲やテロ脅迫を許さず、表現の自由の重要性を訴える姿勢を示すことを目的とした行動です。

トリエンナーレを楽しみにしていた個人としては、見られない展示が増えることは悲しいですが、この主張自体は理解できます。

 

 

そんななか、モニカ・メイヤーは展示の変更を申し入れました。

 

 

モニカ・メイヤーは、女性の置かれた状況をアートとして表現してきました。

モニカ・メイヤーが続けてきた活動のひとつに、The Clotheslineという展示があります。

これは、女性の参加者に、性別が原因で嫌な思いをした経験を書いてもらい、それをロープにかかった大量の洗濯バサミで吊るす、というものです。

それによって抑圧されてきた声を可視化し、女性の置かれている状況を露わにしています。

 

今回、トリエンナーレでもこの展示が行われていました。来場者が自分の体験を書き、それを吊るすことができるというものでした。

 

しかし、モニカ・メイヤーは展示内容の変更に踏み切りました。

今まで集められた回答はすべて回収され、今後、新たに回答を受け付けることもしません。

 

展示室にはただロープと洗濯バサミだけが残っており、何枚かの写真だけが、かつてあった展示の本来の姿を教えてくれます。

 

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そして、床には、回答の書かれるはずだった用紙が破られて、無数に散らばっています。

 

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私たちは、この破られた空白の用紙が散らばった床の上を歩くことになります。

 

 

本来であれば、ここで抑圧された人々の声を見られるはずでした。

しかし、表現の自由が脅かされてしまえば、それも叶わない。

そして、このままだと、私たちはその声なき声、白紙のカードを踏みつけて歩いていくことになるのです。

 

表現の自由が奪われるとはそういうことなのだと、モニカ・メイヤーは訴えかけているのではないでしょうか。

 

 

モニカ・メイヤーは、展示を中止しませんでした。

しかし、その変更によって、表現の自由の大切さをいっそう強く主張しているのです。

 

 

芸術は、それ単体で存在するものではありません。

社会や文脈といったものに作用され、また作用しながら、形作られていくものです。

モニカ・メイヤーの展示は、「表現の不自由展・その後」の中止という文脈のなかで、内容を変更するという方法をとることによって、また別の意義を持つものになった、と言えるかもしれません。

だからといって「表現の不自由展・その後」の中止を喜ぶ気持ちは微塵もありませんが、私はここに、モニカ・メイヤーの矜持を見たような思いがしました。

 

 

 

モニカ・メイヤーの作品は名古屋市美術館に展示されてあります。

また、この会場にも、ほかのどの会場にも、面白い展示がたくさんあります。

ぜひ足を運んでみてください。

 

合コンテク「さしすせそ」より「せ」についての一考察

少し前から話題になっている動画がある。雪印「重ねドルチェ」のCMだ。

 

0:52~「できる女のさしすせそ」に注目してほしい。

 


カサネテク|無敵の合コンテクニック!?Full ver.

 

 

合コンでモテるテクニックとして「さしすせそ」が紹介されている。

 

さ「さすが〜!」

し「知らなかった〜!」

す「すご〜い!」

せ「センスいいですね〜!」

そ「そうなんだ〜!」

 

この「せ」について記述していく。

 

なお「こんなテクで喜ぶ男はバカだ!」とか「こんなCMを作るなんて何を考えているんだ!」といった意見もあるだろうが、ここでは取り上げない。

 

 

「合コンさしすせそ」の裏にある考え方

 

「合コンさしすせそ」が「男はとにかく褒めておけばいい、持ち上げておけばいい」という考え方に立脚したモテテクであることは疑いようもないだろう。実際、このような意見は巷にありふれている。

 

 

「さ」「し」「す」「そ」

 

それを踏まえてひとまず「し」「そ」を考察する。

 

「知らなかった」:相手の知っていることを自分は知らなかったという意味。自分よりも物事を知っている相手を尊敬していると考えられる。

 

「そうなんだ」:相手の知っていることを自分は知らなかったという意味。自分よりも物事を知っている相手を尊敬していると考えられる。

 

 

このように、相手を尊敬し、一段上に置こうとする姿勢が共通して見て取れるだろう。

 

次に「す」

 

「すごい」:感嘆に値するほどすばらしい

 

分かりやすい尊敬の念の表明だ。

 

 

続いて「さ」である。

 

「さすが」:評判や期待の通りの事実を確認し、改めて感心するさま

 

これも「し」「す」「そ」と同様に、相手への尊敬の念が表れていると考えてよいだろう。

「すごい」ほど直接的ではないが、「前々からすごいと思っていたけど、やっぱりすごいね」という気持ちを表す。以前から一目置いていたとアピールできるところがポイントだろう。

 

 

「せ」の異質さ

 

では「せ」について考えてみたい。

 

「センス」:物事の微妙な味わいを感じとる心の働き。また、それを具体的に表現する能力

 

 

センスをこの定義通り解釈すると、相手にセンス(物事の微妙な味わいを具体的に表現する能力)があるかどうかは、センス(物事の微妙な味わいを感じとる心の働き)のある人間にしか分からないことになる。

 

つまりここには「センスの有無を判断する側は、そのセンスを持っている」という暗黙の理解がある。

 

 

具体的に、センスという言葉の使われ方を考えてみたい。

「ファッションセンスがある」「色彩のセンスがある」「発音のセンスがいい」

どれも「センスがある」人間が発することの多い言葉ではないだろうか。

「センスのない」人間が「センスいいね」と他人を褒めようものなら、「何もわかっていないくせに」と一笑に付されてしまうだろう。

 

「せ」は褒めているものの、相手を持ち上げる「さ」「し」「す」「そ」とは違い、相手を自分と同等程度に見ているのだ。

 

 

なぜ「せ」だけ敬語なのか

 

ここで冒頭の動画に戻りたい。「せ」は「センスいいですね〜!」だ。違和感を抱かなかっただろうか。

さしすせその中で、唯一これだけが敬語である。

 

先ほどまでの議論を踏まえると、なぜ「せ」だけが敬語であるかがお分かりいただけるだろう。

「センスあるね」という褒め方は、相手を持ち上げる力が弱いのだ。

 そのため、敬語を使うことで「センス」という文言を上下関係に組み込み、相手への尊敬の念の表明としているのである。

 

 

余談

 

テレビで「合コンさしすせそ」の 「せ」を当てる問題が出たそうだが、

 

 

 

「セルリアンだぁー!」しか思い浮かばなかったのも、「せ」が相手を持ち上げる構造から逸脱しているせいかもしれない。 

NANAのネックレス

人生がしんどくなると温泉に行く。


大きい風呂は良い。自分のからだをじっと観察する余裕が生まれる。ふだん自分の身を包んでいる「社会性」みたいなものはお湯の中でほどけていき、純粋に動物的な「ヒト」としての自分の身体を眺められるように感じる。


先日も先日とて人生がつらいので一旦ほどけてしまおうと思い、近所の某温泉へ浸かりにいった。


地元の人が主に通うような小さな温泉だし、そもそも昼間だったしで、おばちゃんやおばあちゃんと呼ばれる世代のひとがお客の8割を占めている。


そんなおばちゃんやおばあちゃんのからだをつい盗み見てしまう。


老体というのはとても興味をひかれる。

服を脱いだ彼女たちの身体は私のからだとはまったく別の種類のもののように思える。

例えば切り立った崖から削り取った荒い岩石のかたまりのような。

あるいはどろっとした水飴を上から垂らしたときに地面に溜まるひだひだを、ゼリー状に固めたみたいな。


妙な想像を働かせる罪悪感もありつつ、どうにも目がいってしまう。


その日はしばらく浸かった後、涼みたいと思っていつものように露天のある外へ出た。露天風呂には先客がいた。70代後半と思しき女性がお湯に浸かっている。


その女性は首に金のネックレスをつけていた。


矢沢あいの『NANA』の主人公でブラストのボーカルやってる方のナナが、年をとったらこういう類のアクセサリーをつけるかもしれない。

なのでこのネックレスを「NANAのネックレス」と呼ぶことにした。


NANAのネックレスを見て、この場所、私にとっては「社会性の脱衣される場所」たる温泉という場所において、その女性の「社会的な自己肯定」といったようなものを強く感じたのだった。


うまくやれるか分からないけど、分からないなりに言葉にしてみようと思う。


その女性の身体には少なからず老いが爪痕を残していた。老いは彼女の顔にさざ波のような皺を彫り、剥き出しの鎖骨を過度に強調させ、かつてはふっくらしていたであろう二の腕をしぼませ、残った皮ばかりが腕からぶら下がっている。動物的な身体としては女性は確実に衰退していっていた。


けれどもNANAのネックレスである。ぴかぴかした少し太めの鎖をつないだネックレスは決して高価なものではなかったはずだけども、そのネックレスをつけた彼女のからだを私はきれいだと思った。


それというのはたぶん、NANAのネックレスが、彼女自身が自分のからだを彼女の生き様の表れとして「肯定」していることの印のように思えたからではないだろうか。


この女性は人生の中でたくさんの経験をしてきたはずだ。過去にたくさんの「物語」を紡いできたことだろう。


NANAのネックレスは、裸の彼女の動物的な「老い」を、彼女の生き様(あるいは社会性)へと橋渡しするよすがとなり、私に彼女の老いの「物語」へと目を向けさせ、そのぴかぴかした輝きで老いを讃えていた。


彼女が「肯定的に生きてきた」のか「最終的に生きてきたことを肯定するに至った」のかは、どちらとも言えないけども、どちらも本当にカッコイイことだと思う。強いことだと思う。


私のような人間にもいつか、NANAのネックレス的な人生を肯定する証的な何かしらのモノを持てる日が来るものかしら。

モノがあるというのはとても心強いことだ。

モノは手で触れるので。


そういえば、ここまで書いてきておいてあれだが、私は『NANA』を途中までしか読んでない。


ブラストのボーカルの方のナナは、レンとどうなったのだろう?


例によって、色々と物思いをする風呂だった。

また近々行こうと思う。






全人類よりご挨拶

「作品と作者は切り離して考えろ」という文言があるように、「誰が言ったか」よりも「何を言ったか」のほうが重要な意味を持つ場面は多い。

しかし残念なことに、人間は「誰が言ったか」を重視しがちだ。もちろんそれでも構わないときもあるかもしれないが、発言を「誰が言ったか」で判断すべきでない場合も多々ある。

たとえば、あなたが何かを主張したときに、その主張をあなたの属性と関連させる形で批判されたらどうだろうか。「男/女だからそういう主張になるんだろ」「どうせ学生の言ってることなんて大したことない」など。「そういう話じゃないだろう」と言いたくなるのではないか。

発言者の属性と発言内容のあいだに本来は何の関係もない場合でも、発言内容を発言者の属性に引きつけて考えてしまうのは、良いことだとは思えない。


 

どうすれば「誰が」重視の風潮を避けられるだろうか。そのひとつの方法が匿名化だ。インターネットの海で、仮面を被って振る舞うこと。これで「誰が」発信しているかは見えづらくなる。

 

けれど、同じ場で発信をつづけていると、過去の発言から「誰が」が浮かび上がってくる。Twitterのプロフィールに何も書いていなくても、そのアカウントの発言を遡ると、なんとなく発信者の輪郭が見えてくることがあるだろう。過去の発言のなかに散りばめられた断片的情報が繋がれることで、空に浮かぶ星座のように、発信者の姿が立ち現れるのだ。どのような人物が発言しているのかを受け手に想起させてしまえば、やはり「誰が」重視の風潮に呑まれることになる。

 

それなら、一回限りの発言を繰り返していけばいいのだ、と言われるかもしれない。ツイートするたびにアカウントを変えればいいよ、記事をひとつ書くごとにブログを新しく作ればいいのだよ、と。しかし、聴講者が全くいないところで行われる講演にどのような意義があろうか。たしかに、受け手がいなくても完結する行為もあるが、社会との関係性の中に存在して初めて意味を持つ行為もある。

インターネットの海に微小な砂つぶを投げたとして、はたして誰が見つけてくれるだろうか。ひとつの場で複数回の発信をすることは、受信者に見つけてもらうために有意義なのだ。

 

では、「誰が」をあやふやにするために必要なのは何だろうか。それは、ひとつの仮面を複数の人間で被ることだと考えられる。

AさんとBさんとCさんの人格を統合するのだ。ひとつのアカウントを複数人で共有し、仮面の裏に誰が潜んでいるのか、何人潜んでいるのかさえも分からない状況を作り出すのだ。これで、発信の場を変えることなく、発信者の姿をくらませることが可能となるのではないか。

 

そういうわけでこのサイトは複数人で運営していく。我々のユニット名は”全人類”だ。「誰が」を重視するこの社会の価値観を転覆させようと目論見ながら、積極的に社会と関わっていこうと考えている。当然ながら発信内容は多岐に渡る予定だが、この試みにお付き合いいただけるなら嬉しい限りだ。